1. 私たちにとっての古典
どうしてアーユルヴェーダでは古典が重要なのか。という質問を受けたことがあります。
そもそもチャラカたちの古典に書いてあることがどうして本当だと言い切れるのか、という質問。
チャラカではこう書いているから、スシュルタではこう言っているから。という絶対的な答えを伴う会話が当たり前のように繰り広げられている世界にいた身としては、ちょっとびっくりしましたが、アーユルヴェーダに馴染みがない人からすれば確かにそう思う気持ちも理解できると思いました。
アーユルヴェーダの知識にはじまりや終わりはなく、それは普遍的なものです。
生命が始まった時には、すでにアーユルヴェーダの知識はそこにあったと言われています。
その知識を本に記したものがアーユルヴェーダの古典と言われるものであり、その本が焼けてなくなっても、アーユルヴェーダの知識は焼けてなくなることはありません。
アーユルヴェーダを学ぶ人たちにとって、知識が記された古典を読むことは不可欠です。古典を読み、分からないことがある時、必ず古典に戻ります。古典はサンスクリット語で書かれており、的確に書いてあることもあれば、曖昧だったり、現代に生きる私たちにとって意味不明なこともあります。古典を読んでも分からないことがある時は、経験のあるアーユルヴェーダの先生に意見を求めたりして、いろんな人の意見を聞いて、その後にまた古典に戻り、吟味し咀嚼し、自分なりの解釈に辿り着くという具合です。
90歳になる経験豊富なアーユルヴェーダのおじいちゃん先生が、僕はアーユルヴェーダのことが全然分かってない。と言って、おいおい涙を流した。という話を聞くくらい、アーユルヴェーダは奥が深く、この人生だけで理解するのはとても難しいことです。しかし古典を読むと、毎回違うところに興味を惹かれたり、同じ文章なのに新しい発見があったり、自分なりの解釈が変わったり深まったりして、とても楽しいです。それでも古典に書いてあることは、決して変わることはありませんし、普遍的な知識です。
2. どうして古典が重要なのか。
アーユルヴェーダには真実を知る方法というものがいくつかあります。
その中の一つがアプトーパデーシャ(アプタ+ウパデーシャ)です。
アプタとは、修行によって叡智を得た人。心のサットヴァ(純性)が増えて、ラジャス(激性)やタマス(鈍性)に支配されていない人、過去・現在・未来に通じる智慧を持っている人。
ウパデーシャとは、話すこと。
つまりアプタが話したことは真実であるということになります。
今も残るアーユルヴェーダの古典を書いたチャラカ、スシュルタ、ヴァーグバタ、そして彼らの先生たちはアプタであったと言われています。だから私たちはいつもこの古典を知識の拠り所にして、そこから真実を得ようとしています。
3. チャラカたちはアプタか。
それではどうしてチャラカたちがアプタであったと言い切れるのか、ということは私には証明できません。
しかし、他の真実を得る方法、プラティヤクシャ(自分の感覚器官を通して得た知識)やアヌマーナ(推測)などで証明することはできます。チャラカたちが本に書いたことを実践してみて、自分の五感や心で感じ、古典の知識から推測されることを実践することで、それが真実なのかどうか確かめることができます。その結果、もしかしたら真実ではなかったと思う人もいるかもしれません。しかしアーユルヴェーダが5000年以上も語り継がれてきていることを見ると、それらは真実だからではないか、とも思います。
4. 結論。
もちろん、古典を読まなくても古典に書いてないことでも、自分で真実に辿り着いて知識にできることもあります。だけど自分だけの力ではその量は限られてくるので、アプタが書いた古典の力をお借りして沢山の知識を頂戴しようという具合です。
こういった理由から、アーユルヴェーダを学ぶ時、古典を重要なものだと考え、彼らがアプタであることを前提として古典を読み、実践を通してその真実の知識を深めていくということを行います。